[ ここから本文です ]

Power to Inspire Story

挑戦し続けるアスリートたちの物語

Vol.6 Satoshi Saida

自分に厳しく、甘やかさなければ、どんどん進化できると信じている

Satoshi Saida
齋田悟司

車いすテニス選手

スポーツには、ただ競い合い、楽しむだけでなく、人々を成長させ、社会をも変える力がある。スポーツを通して挑戦を続け、多くの人を奮い立たせてきたアスリートたち。彼らは何を考えながら戦い、そしてどんなヴィジョンをその胸に秘めているのか。
車いすテニスのトッププレーヤーとして世界で活躍する齋田悟司は、ベテランとなったいまも自分を甘やかすことなく鍛え続ける。「自分の決断を後悔したくないから」とその熱い思いを語った。
Satoshi Saida
47歳になったいまでも、齋田悟司は自分自身を追い込み続ける

「年齢を考えると休んだほうがいいのはわかっているんです。でも休めない(笑)。若いときと同じようなトレーニングをやってしまって、ついオーバーワークになってしまいます。もうこれは性分というか、とにかく限界までやりたいんです。年をとっても、どんなにしんどくても、いつも自分の限界までチャレンジしていたいんです」

千葉県柏市にある彼のホームコート。車いすテニス選手である齋田は、若いコーチを相手に汗だくになって練習をしていた。屋内のテニスコートでは彼がボールを打つ音が大きく響く。その音も、弾道も、とても上半身だけが生み出しているものとは思えないほど、力強い。さらに驚くのは、車いすでの移動の素早さ。前後左右に動き、ときにはボールから目を切ってターン。かつて世界一に輝いた男は、現在も現役バリバリだ。毎日のようにコートで練習し、コートを離れたあとも筋トレやダッシュの練習を繰り返す。

「1年の1/3から半分は海外でツアーを転戦する生活が20年間続いています。これだけ続けているとマンネリ化しがちなので、集中するために練習段階の時間から意識するようにしています。早く寝て早く起きる。そして朝食をしっかりとる。そういった基本的なことを気を抜かずにやることで、コートでも集中力を発揮できる。誰に強制されたわけでもないのにここまでやるのは、テニスが好きだからということにつきます。好きだからこそどんなにつらくても続けることができた」

野球少年だった齋田が骨肉腫で左足を失ったのは12歳のとき。「悪い夢を見ているようだった」と気落ちし不安に苛まれていた彼を見かねた両親は、地域にあった車いすバスケットボールの練習に彼を参加させることにした。

「チームにはいろんな障がいを持った方がいて、なかには僕よりも重度の方もいました。そんななかで先輩たちの話を聞き、学んでいるうちに前向きな気持ちになっていった。障がい者であってもみんな自立して生活しているし、スポーツを楽しんでいる。自分も彼らと同じように生きていこうと思えるようになりました。あの出会いがなければいまの僕はいないと思います。テニスをはじめたのはそのあとで、本当はバスケを続けたかったんだけど、チームがなくなっちゃった。それでテニスだけ続けることになったんです(笑)」
Satoshi Saida
大きな転機が訪れたのは27歳のとき。当時、齋田は地元・三重県の公務員で、安定した生活を送っていた。すでに日本を代表するプレーヤーになっていたものの、世界で戦うための力をつけるにはもっと練習できる環境に身を置く必要を感じていた。

「そのとき、現在練習をしているコートの関係者の方に出会ったんです。車いすテニスは練習できる場所が少なく、練習相手もなかなか見つからない。でもここに来ればいつでも練習できて、しかも車いすメーカーで雇ってくれるという話だったんです。チャレンジしたい気持ちはありましたが、めちゃめちゃこわかった。まわりの反対もありましたし、僕も安全なほうを選ぶ性格(笑)。仕事も住む場所も変わるわけですから、なかなか踏ん切りがつかず、3年間悩んだ。それでもやることになったのは、ある人の言葉がきっかけでした。『欧米の選手と互角に戦えるだけの身体があって、練習できる環境もある。そこに挑戦するのはあなたの使命。誰もができることじゃない』。自分にしかできないことをやらないでいたら悔いが残る。彼の言葉に背中を押されて、よしやってみようと思いました」

2003年には国際テニス連盟(ITF)選出の「世界車いすテニスプレーヤー賞」を日本人選手として初受賞。世界のトッププレーヤーとなってからもひたすら努力を重ねた。

「1位になった、メダルをとった。それはそれでうれしいし、達成感はあります。でもその余韻にひたるよりも先に、“次”のことを考えてしまう。1日1日が勝負で、実績は常に過去のこと。そんな生活がずっと続いてきた。ラケットも車いすもどんどん進化していて、僕はその開発に携わっている。速く安定したプレーができる車いすができれば、それにあわせてプレースタイルも変わりますからね。常に自分に厳しく、自分を甘やかさなければ、どんどん進化できると思っています」

後悔しないための挑戦は、一生続いていく

現在彼が目指しているのは、東京パラリンピックでの晴れ舞台だ。

「4年前、年齢的にもう限界かなと思ったけど、やっぱり日本で大きな大会があるのであれば、そこに出たいと思った。車いすテニスはまだまだ小さな世界ですが、それでも長く続けていれば、認めて応援してくれる人たちがいる。それってすごいことですよね。僕が世界一になりたいと言ったとき、何を言っているんだという人もいました。でも自分で言った以上、頑張るしかなかった。なかなか勝てない時期もありましたが、本気で頑張っていたからこそ、たくさんの人が応援してくれたんだと思っています。中途半端な気持ちではまわりには何も伝わらない。前向きに頑張るからこそ、応援してくれる人や協力してくれる人がでてきてくれる。そして、その思いに応えるために、僕も夢に近づこうとさらに努力できるんです」

現役生活が終わりに近づいていることは理解している。そしてそのあとの夢もある。

「選手生活が終わったら、テニスの楽しさをたくさんの子どもたちに伝えていく活動をしたい。左足を失い、不安しかなかった僕が車いすテニスに出あって、人生が変わった。かつて僕が車いすバスケの先輩たちに力をもらえたように、僕自身がそういう存在になりたいですね。前を向いて頑張っていれば、必ず道はひらける。その入り口、きっかけを作りたいと思っています。かつて僕は悩みに悩んで、プレーヤーとして挑戦することを決めた。この先の人生でずっと、あの時の自分の決断は間違っていなかったと思っていたい。いまもそれは続いていますよ。後悔しないための挑戦は、一生続いていくんでしょうね」

20年間ひたすら流してきた汗は、決して彼を裏切らないだろう。東京パラリンピックのコートで彼が活躍する姿を楽しみにしたい。
Satoshi Saida

齋田悟司

1972年生まれ、三重県出身。12歳の時に骨肉腫により左下肢を切断、車いす生活に。1996年のアトランタ大会から6大会連続でパラリンピックに出場。2004年のアテネパラリンピックでは国枝慎吾選手と組み男子ダブルスで金メダル、2008年の北京で銅メダル、2016年リオデジャネイロで銅メダルを獲得。2003年には国際テニス連盟(ITF)選出の「世界車いすテニスプレーヤー賞」を日本人選手として初受賞した。
文・川上康介 写真・淺田 創
── 私たちは、スポーツの力を通じて次世代を担う子どもたちを支援しています ──
MUFGのCSRの取組みについて
https://www.mufg.jp/csr