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Power to Inspire Story

挑戦し続けるアスリートたちの物語

Vol.8 Takeshi Okada

スポーツが人を変え、街を変え、世界を変える

Takeshi Okada

岡田武史

FC今治オーナー、元サッカー日本代表監督

スポーツには、ただ競い合い、楽しむだけでなく、人々を成長させ、社会をも変える力がある。スポーツを通して挑戦を続け、多くの人を奮い立たせてきたアスリートたち。彼らは何を考えながら戦い、そしてどんなヴィジョンをその胸に秘めているのか。

元サッカー日本代表監督の岡田武史は、現在愛媛県今治市のサッカーチーム「FC今治」のオーナーだ。理想のサッカーを追い求めた彼の情熱は、街全体に波及し、今治市が大いに盛り上がっているという。5年間、チームのために奔走し続けた彼が見た「スポーツの力」とは……

Takeshi Okada
選手が自分で考えて動ける“OKADA METHOD”を確立するための実験場

今治市街を見下ろす丘の上にあるFC今治のホーム「ありがとうサービス.夢スタジアム」に、岡田が自家用車で乗りつける。オーナーとはいえ、その自家用車は使用感たっぷり、10年以上前の古い国産ワゴンだ。

「これでもグレードアップしたんだよ。最初は30万円の中古車だったから。その車にポスターを貼って市内を走ったこともあったなあ。街でビラを配ったりしたこともあったよ。自分の夢のために始めたことだから2年半は無給でやっていたけど、さすがにそれはってことになって、いまは給料をもらっています。新入社員より安いですけどね。オーナーって言ったって、ぜんぜん優雅なものじゃないですよ」

そんな苦労話をいかにも楽しそうに話すのは、岡田武史・元サッカー日本代表監督だ。日本を代表する名監督は、現在、FC今治のオーナーとして日々チームのために駆け回っている。大阪生まれの彼が縁もゆかりもないこの土地のサッカーチームのオーナーになったのは、2014年11月。監督から経営者へ。その挑戦の裏には日本のサッカー界を変えたいという強い思いがあった。

「これは僕が日本代表の監督をやっていたときから思っていたことだけど、日本のサッカーには自分で考え、主体的に動ける選手が少ない。それは、そもそものサッカー教育に問題があるんじゃないかと。つまり厳しいスパルタ指導で怒鳴られ、監督のいうように動く選手ばかりが育っているから、自分で考えることをしない。実際、高校生くらいまでならスパルタ教育のほうが強くなったりするんですよ。でもそれを続けていたら日本のサッカーに未来はない。だから僕は、ちゃんと自分で考えてプレーできる選手を育てたかった。その“OKADA METHOD”を確立するために今治に来たんです。言葉は悪いけど、自分のメソッドの実験場。でもいつの間にか、思っていた以上に、サッカーを超えた様々な“効果”が現れてきて、僕も走り続けなければならなくなったんです」

「2025年までにJ1で優勝争い」というのが、岡田のオーナー就任時のマニフェストだった。彼が人脈をフルに活用して選手や指導者を呼び、自らの足で企業を回り、頭を下げてスポンサーを集めた。FC今治は、2016年にJFL(日本フットボールリーグ)に参入すると、2019年にJFL3位を達成し、2020年から「想定より1年遅れ」でのJ3昇格が決まった。また、FC今治だけではなく、少年サッカースクールや中高生のチームへコーチを派遣して指導するなど、地域をあげたサッカー教育にも貢献し、2019年は全国高校サッカー選手権大会に地元の今治東高校が愛媛県代表として初出場、ベスト16まで勝ちあがった。
Takeshi Okada
「今治のサッカーが強くなれば、サッカーをやりたい若者が今治に集まるようになる。プロチームを頂点に中高生、少年サッカースクールを含め、たくさんの選手がプレーするような一つのピラミッドにして、みんなで強くなろうと指導をしてきました。最初はなかなか信用してもらえませんでしたよ。どうせちょっとやったら東京に帰るんだろうって。でも3年経ったころから、街の人が協力してくれるようになった。仕事ばかりしていても“仲間”は増えない。3年目からは社員がなるべく街に出て、メシ食べて酒飲んで友達をつくろうって地道な活動もしていました。そうしたら少しずつ認めてもらえるようになって。2017年にこのスタジアムが完成したときは、5,000人の客席が満員になったんです。その中に泣いているおばあちゃんがいてね。『どうしたんですか?』と尋ねたら『岡田さんが来たときは否定的だったけど、今治に誇れるチームが本当にできると思わなかった』って。その言葉を聞いて僕も本当に感激しました」

FC今治の活躍で街が活気を取り戻しつつある。“おらがまち”のチームとして市民がFC今治を応援する雰囲気が出来上がってきたのだ。J3への昇格争いの中で、チームをスポンサードしたいと個人的に寄付を申し出る市民も現れたという。サッカーが人を変え、街を変える。岡田が言う。「今治の街が動き出した」。彼はこの5年間、自らの目でその変化を見届けてきた。

ピンチを経験すれば、人は強くなっていく

「ラグビーの元日本代表監督の大西鐡之祐さんの本に『スポーツが世界を平和にする』と書いてありましたが、それは決して大げさではないと思っています。スポーツは人間を成長させ、豊かにします。決められたルールの中で闘争本能をむき出しにし、かといって獣になってしまうのではなく、理性を保ちながら全力で戦う。ピンチがあり、チャンスがあり、敗北も味わう。そういった経験を重ねていくうちに、自分を知り、人間関係を学び、互いにリスペクトし合うことができる。そういう人間が増えていけば戦争なんか起きないと思いますよ」

特にピンチが人を育てると、岡田は自らの経験を語った。

「僕が初めて日本代表の監督をやることになったのは、1997年、41歳のときでした。監督なんてやったことがなかったのに、いきなり代表監督ですからね。重圧はすごかったし、批判の声もたくさんありました。家にジャンジャン『辞めろ』って電話がかかってきて、家族にもかなり心配をかけました。なんで自分がこんな目にあわなきゃならないんだって、本当に協会を恨みましたよ(笑)。でもそのときにふと開き直ったんです。『今俺にできることを全力でやるし、結果に対して責任は取る。でも、もしダメだったとしても俺のせいじゃない。俺なんかを監督にした協会が悪いんだ』って。そこで僕は何かのスイッチが入ったのを感じました。それまではどちらかというと引っ込み思案で人前で話をするのも苦手でした。それが、開き直ってからは全然平気になった。ギリギリまで追い込まれたからこそ成長できたんです。FC今治でもたくさんのピンチがありました。でも追い込まれてもうダメだってなると、社員がグンと成長するんです。自分がやらなきゃって責任感が芽生えるんでしょうね。今の子どもっていろんなものが安全・安心・便利になっちゃって、なかなかピンチを体験することってないじゃないですか。だからスポーツでピンチを経験することで、小さなスイッチを入れられる。人間として強くなっていくと思いますよ」

目に見えないものを大切にする次世代のための社会を作りたい

岡田の目は、すでにJ2、そしてJ1へと向いている。J1へ昇格するには収容可能人数が15,000人以上のスタジムが必要となる。天然芝が美しいホームスタジアムから一段下にある空き地を指さし、「あそこにJ1用のスタジアムを造る予定です」と嬉しそうに語る。

「そこは365日人が集まる複合型の施設にしたいんです。医務室や学童保育の施設も造り、サッカーだけでなくいろんなスポーツを楽しめ、さまざまなことを学ぶことができる場所。ショッピングをしたり、食事をしたり、家族で来て半日過ごせる場所。大きなプロジェクトになりますが、きっと実現してみせますよ。そのためにもチームにはもっと頑張ってもらわないと」そういって街を見下ろす目は、夢見る若者のようにキラキラしている。

「そりゃ毎日、大変ですよ。こんな小さなチームでもいろんなことが起こる。資金もいつもギリギリで、自分の貯金を切り崩しながらやっている。家では妻に怒られてばかりです(笑)。でもね、普通なら定年になっている年齢で毎日ワクワクできるのは本当に幸せです。ありがたいことに、僕のホラについてきてくれる社員や選手がいてくれる。この間も、下部組織の少年たちの練習を見に行ったら、みんなが『オーナー!』って笑顔で近づいてきて、一人ずつ握手したんですよ。『あー、俺のチームの選手だ』と思ったら最高の気分でした。利益だけを追い求めていたら、こんな思いは絶対にできなかったでしょうね。僕は豊かさって、やっぱり数字ではあらわすことのできない、心の豊かさのことだと思う。共感、感動、信頼、そういった目に見えないものを大切にする“次世代のための社会”を作りたい。スポーツはそのために絶対必要だし、社会を豊かに変えていく力がある。まずは今治がそんな街になっていってほしいですね。そのために僕ももう少し走り続けますよ」

そう語った岡田は、言葉通りに次のアポイントに向けてワゴン車で走り去っていった。あんなに人懐っこい笑顔で、あんなに情熱的に語られたら、誰でも応援したくなるだろう。岡田は愛媛の小さな街で“OKADA METHOD”を通じた “革命”を起こそうとしている。サッカーを起爆剤に、今治が変わり始めている。そしてその革命が成し遂げられれば、日本を、世界を変えることになるだろう。
Takeshi Okada

岡田武史

1956年生まれ、大阪府出身。日本代表のディフェンダーとして活躍後、指導者の道へ。1995年、日本代表のコーチに就任すると、1997年、W杯最終予選の途中で加茂周監督の後任監督に抜擢。日本初のFIFAワールドカップ出場に導く。その後、コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスの監督を歴任し、2007年に再び日本代表監督になると、2010FIFAワールドカップでチームは決勝トーナメントへの進出を果たした。2012年から中国サッカー・スーパーリーグの杭州緑城足球倶楽部の監督をつとめた後、2014年にFC今治のオーナーとなる。チームは今季からJ3に昇格を果たした。現職は株式会社今治. 夢スポーツ代表取締役会長。
写真・淺田 創
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